【IPの歴史を担ってきた実践部隊】
この人ぬきにIPは語れない。
日立ソフトの田中一之さん。
いよいよIP実用化の大横綱、IP使いの梁山泊ともいわれる前線基地、日立ソフトウェアエンジニアリング株式会社(以下:日立ソフト)に突入しました。IP使いの凄腕エンジニアたちが勢ぞろいと聞いてドキドキしながら訪れましたが、現れたのは、やさしそうな面々でした。年齢もバックグラウンドも異なる田中さん、鈴鹿さん、吉田さん、鈴木さんの4人。きっと話される内容も難しい技術用語満載かと身構えていましたが、IPの考え方や、IPとの出会い、そしてそれにかける夢など、等身大の想いを聞かせてくれました。みなさんのソフトで誠実な物腰に、技術者のイメージがすっかり変わった・・・かな??
まず、主任技師の肩書きをもつ田中一之さんに日立ソフトにおけるIPの歴史を語っていただきました。それはそのままIPコンソーシアムの物語でもあります。





 日立ソフトとIPの歴史は、田中さんとIPとの出会いからはじまります。北海道大学出身の田中さんは、卒業後も半年に一回は出張がてら田中譲先生のところに遊びに行っていたそうです。「おもしろいものが出来たから来い」と先生に呼ばれたのが88年のこと。それが田中さんとIPとの出会いでした。
 第一印象は「コンセプトはすごくおもしろいけれど、はたして実用になるのかな」という心配半分。一方で、こんな面白いものほっておくわけにはいかないと、一方で、こんな面白いものほっておくわけにはいかないと、エンジニア魂に火がついたとか。 そんな中で、90年に田中先生の研究室と日立ソフト、さらに富士通、ソニーに呼びかけIPを具体的な形にしていこうという月1回の研究会が始まりました。
 92年頃、実用化に向けての技術的な開発にめどがついてきた頃、今後の方針を検討するため、一端研究会の活動を終了しました。そして次なる展開を模索しつつ、そして次なる展開を模索しつつ、当時BUGを辞めて一息ついていた村田さん (株式会社ビー・ユー・ジー設立メンバーの一人、現ソフトフロント代表取締役社長/CEO村田利文氏)らと北海道大学の田中譲先生の研究室でIPの勉強を始めたそうです。村田さんはその後、ビジョンコーポレーションという会社(現ソフトフロント)を興す傍ら、IPの研究における中心的な存在として活動し、研究会に集まったメンバーと内々で新たな組織作りを行っていきました。


 

「ビル・アトキンソンの言葉には、本当に勇気付けられました。」

 
 
 



「説明会に百数十人が集まって、主催者の方がビックリでしたよ。」




そして、IPの交換、共有といったコンセプトから、「IPを広く普及させていくためには、ある特定の企業の色が強くならない方がよい。そのために、企業や研究者が集まれる中立的な立場のコンソーシアムを作ろう」という意見が誰からともなく生まれていったそうです。
 「手始めに、北海道大学での研究成果を世間に発表して反応を見てからコンソーシアムをつくろうということになったんですよ。ちょうどその頃、93年の5月に神戸で開催される予定だったTED4に出展しないかという
 話しが田中先生のところに舞い込んだので、みんなでIPコンソーシアム設立準備委員会という形で出展しようという話になったんです。
 TED4とは、「Technology, Entertainment, Designingが一体となって、初めて新しい時代が開拓出来る」というリチャード・ワーマン氏の提唱のもと、上記3分野の世界の専門家が一堂に会し議論する会議。神戸会議が4回目であることからそう呼ばれていたそうです。その会議が開催された4日間、会場にマシンを持ち込んで、IPのデモを行いました。
「非常に大きな手ごたえを感じました。特に、ハイパー・カードを作ったビル・アトキンソンが熱心にへばりついて、「こういうものが作りたかったんだ」というコメントを残してくれたんです。」と語る田中さんの言葉には、当時の興奮が伝わってくるようで、ちょっとゾクゾクしました。
 その後、5月の末にコンソーシアムの設立を発表し、ニュース等で募集を告知しました。「永田町の砂防会館の大きなホールで、デモもろくにせず、このようなものをやりましょう、と会員を募ったら百何十人も集まって驚きましたよ。」と田中さん。
 そしてついに1993年7月20日、札幌を本拠地としてIPCが発足しました。村田さんを企画室長(初年度は事務局長)に、田中さんも富士通や富士ゼロックスの方々と設立当初から企画会議のメンバーとして参加されていたそうです。